岸田内閣で初入閣し、デジタル大臣となった牧島かれんさん。
当選3回の若手議員でありながらデジタル相を任された牧島かれんさんは、
どのような学歴や経歴をお持ちなのでしょうか。
この記事では
- 牧島かれんさんのwikiプロフィール&派閥
- 牧島かれんさんの学歴や学生時代のエピソード
- 牧島かれんさんの経歴
- 牧島かれんが政治を志したきっかけ
についてまとめています。
目次
牧島かれんのwikiプロフィール!派閥はどこ?

名前:牧島かれん (まきしま かれん)
生年月日:1976年11月1日
年齢:44歳(2021年10月現在)
血液型:B型
身長:155cm
出身地:神奈川県横須賀市
資格:わな猟の狩猟免許、野菜ソムリエ、防災士
趣味:映画鑑賞、SUDOKU(数独)
牧島かれんさんの派閥は麻生派です。

2009年に初めて立候補し落選してしまった牧島かれんさんに対し、
過去に落選経験があったという麻生太郎さんは、「明るく前向きに行け」と言葉をかけてくれたそうです。
そんな麻生太郎さんとは、「狩り友」なんだとか。
牧島かれんさんは、シカやイノシシなどの野生動物により、
農作物が荒らされる被害を軽減することを目的にする鳥獣食肉利活用推進議員連盟(ジビエ議連)に所属しています。
野生動物による農作物等の被害問題を調べていくうちに「自分でも狩猟してみたい」と思い、2014年に捕獲のための罠の免許を取得。

神奈川県猟友会小田原支部に所属し、神奈川県内の山を回って、シカやイノシシを狩り、解体までします。
解体には、2~3時間かかるってことも…すごい体力ですね。
解体した肉は、基本的にバーベキューで食べてしまうとか。
麻生太郎さんとバーベキューを一緒にしているかはわかりませんが、
ハンティングが趣味の麻生太郎さんとは、狩り友と言うことで、山で一緒になることがあるのでしょう。

このように野性的なことからなのか、牧島かれんさんは「永田町のハイジ」と、あだ名が付いています。

ちなみに、イノシシは解体できますが、魚はおろせないとか・・・。
そんな、明るい人柄の牧島かれんさんが、2016年の後援会だよりで自己紹介した内容がこちらです。
【座右の銘】温故知新
【小さい頃の夢】宇宙飛行士
【好きな食べ物】おにぎり、納豆、チャーシューワンタン麺、蕎麦、餃子(炭水化物全般)
【苦手なこと】腹八分目、ひとまず丸く収めること
炭水化物全般が好きで、腹八分目が苦手・・・。お腹いっぱい食べるのが好きなのでしょう。
そのほか、衆議院議員総選挙で初当選した36歳頃のインタビューでは、
忙しくて買い物に行けないため、ジャケットやスカートなどの洋服は、母親に買ってきてもらっている
とも明かしていました。

また、小さい頃から5歳年下の妹の髪をとかすなど、世話を焼くのが好きで長女気質な牧島かれんさん。

明るくて、サバサバとした性格なのではないでしょうか。
牧島かれんの学歴がすごい!出身小学校・中学校・高校・大学はどこで最終学歴は?学生時代のエピソードも調査
続いて、牧島かれんさんの出身小学校、中学校、高校、大学など学歴を見ていきます。
学生時代のエピソードも調査しました。どんな学生だったのか気になりますね。
横浜雙葉小学校時代
牧島かれんさんは、1983年4月より神奈川県横浜市中区に所在するカトリックの女子校・横浜雙葉小学校に通学しました。
牧島かれんさんの両親は共に忙しく、同居していた祖母が母親代わりのように育ててくれたそうです。

ただ、しつけには厳しかったという祖母は、小学3年生だった牧島かれんさんをアメリカへの一人旅に挑戦させます。
じつは、日本の女子教育者の先駆者である津田梅子と遠縁に当たる牧島かれんさん。

祖母は、6歳で船に乗ってアメリカに行った津田梅子に習って、
当時8歳だった牧島かれんさんに、大叔母のいるアメリカ・ジョージア州の東に位置するサバンナへ行かせたのです。

当時のアメリカ南部はまだ、人種差別の考えが色濃く残っていた時代。
その中で、親戚の同じ年の男の子などと子供たちの中へ入って楽しんできました。
さらに、牧島かれんさんは日本から持って行った花笠をかぶり、花笠音頭を踊って日本の文化も伝えています。

ある日、「友達と遊びに行って良いか」ホストファミリーに聞いた牧島かれんさん。
「自分で自分のことを守りなさい」と言われ、“自由と責任とは表裏一体なんだ”と感じたそうです。
肌や目や髪の色など、ルーツが異なる人々が世界中にいることや、「自由には責任が伴う」という考えなど、
この一人旅で得た経験は、牧島かれんさんの大きな財産になりました。
横浜雙葉中学校時代
小学校卒業後、横浜雙葉中学校へ進学。
小学校から女子校で過ごしてきた牧島かれんさんは、共学とは違って最初から最後まで女子が完結してやるところが気に入っていたようです。
学校内での活動は、生徒全員で議論し決断し行動します。その中で女性のリーダーシップを学びます。

中学3年生時には、神奈川県代表として、高松宮杯全日本中学校英語弁論大会に出場し、
英語でのスピーチに挑戦しています。
横浜雙葉高校時代
横浜雙葉中学校からエスカレーター式で、横浜雙葉高校に進学した牧島かれんさん。
この頃のエピソードは見当たりませんでした。
しかし、横浜雙葉高校卒業生で、牧島かれんさんの1学年下という人がツイッターに投稿していた内容を見てビックリ!
ワイの高校の一個上の学年はお嬢様学校にあるまじき怖い学年として教師も生徒も眉をひそめていたんだけど、牧島かれんさんやら三浦しをんさんやら才能ある人をたくさん輩出したんよね。やっぱ枠にハマらない強さがあったんだろな。
— 林 真紀@訳書が発売されています (@maki_hayachi) October 3, 2021
小説家の三浦しをんさんも横浜雙葉中学校、横浜雙葉高校出身で、牧島かれんさんと同じ年だったんです。

もしかすると、顔見知り?もしくは、友人だったり?するのかもしれません。
国際基督教大学(ICU)時代
高校卒業後、東京都三鷹市に所在する国際基督教大学(略称:ICU(アイシーユー))教養学部社会科学科に入学。
ICUは、リベラル・アーツ英語プログラムと呼ばれる一連のクラスを入学から約2年間にわたって履修します。ちなみに、この授業は全て英語で行われます。
1年生時には苦労したという牧島かれんさんですが、ライティングとかリーディングのスキルが身につき、後のアメリカへの留学時には、とても役に立ったとか。

また、大学時代には英語教育に関する事業を主に行う日本学生協会基金(JNSA基金)に入会し、企画部長としても活動しました。
ジョージワシントン大学大学院時代
大学時代、専門を決めずに勉強してきた牧島かれんさんは、民主主義の原点や選挙制度について勉強したいと思い、アメリカの大学院へ行くことを決意します。
そこで、悩んだのが、ニューヨーク・ワシントン・ボストンの三択。
「ニューヨーカーになるのも良いな」と思ったそうですが、当時、衆議院議員だった河野洋平氏に、ワシントンを薦められワシントンへ。
牧島かれんさんは、2000年の秋にワシントンに所在するジョージワシントン大学ポリティカル・マネージメント大学院に進学しました。

この大学は、ホワイトハウスの近くだったことで政治の現場の声が分かるという思いから選んでいます。
留学中は、2000年の米大統領選挙の研究をメインテーマに政治学を学んだり、
アメリカ下院議員の国会事務所、NHKワシントン支局でインターンとしても働いていました。
本来、大学院は2年間行く予定でしたが、学部長にアドバイスされ、どんどんペースを速めた結果、1年後の2001年秋に修士号を取得。
その後、アメリカのエール大学ウィメンズキャンペーンスクールに入学し同年修了しています。
9.11アメリカ同時多発テロ事件に遭遇

2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件。
牧島かれんさんは当日、攻撃されたワシントンにある国防総省本部の建物・ペンタゴンの近くにあるアパートにいて、ペンタゴンから煙が上がるのを目撃したそうです。
アパートの外にはサイレンが鳴り響き、テレビをつけるとニューヨークのツインタワーに航空機が追突する映像が映り、それを見た牧島かれんさんは衝撃を受けます。
街から人がいなくなり、緊急事態となったアメリカ。
この時、政治が機能しなくてはいけないと強く感じたそうです。
国際基督教大学大学院

2004年、国際基督教大学大学院行政学研究科博士後期課程へ進学した牧島かれんさんは、仕事をしながら、
2008年に行政学で博士号を取得しています。
牧島かれんさんの最終学歴は、国際基督教大学大学院行政学研究科となります。
牧島かれんの経歴もすごかった!政治の道を志したきっかけは?
牧島かれんさんは、驚くようなすごい学歴を持っていましたね。
ここからは牧島かれんさんの経歴と政治の道へ歩むことになった経緯などを見ていきます。
様々なメディアを通じてメッセージを発信
2001年に帰国後、9.11アメリカ同時多発テロ事件を目撃した日本人として、
横須賀エフエム放送(FM・ブルー湘南)でのラジオ番組や公演活動を開始。

2002年1月より桐蔭横浜大学の助手、
同年4月より東京純心女子大学講師となり指導も行います。
2004年には、NHK BSのドキュメンタリー番組「ファースト・レディ―大統領選挙を動かす夫人たち―」のコーディネーターや、
テレビ神奈川の教育番組「教育はてな?」のコーナーキャスターを務めました。

この頃の名前表記は「牧島可憐」だったようですね。
2007年6月から、早稲田大学公共政策研究所客員講師、
2008年4月から慶応義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科非常勤講師も務めています。
さらに、産経新聞神奈川県版「週刊コラム」の連載なども担当し、メディアを通じてメッセージを発信します。
政治の道を志したきっかけ
牧島かれんさんの父親・牧島功さんは神奈川県議会議員。

実家と事務所が一緒だったこともあり、子供時代から政治は身近に感じており、
何らかの形で政治に関わっていくだろうと思っていたそうです。
そんな父親は、牧島かれんさんが大学3年生だった1998年に神奈川県選挙区から自由民主党公認で立候補しましたが落選。
この時、宣伝カーに乗ったり国の関係者たちと会ったりと国政に携わります。
そこで、当時選挙対策本部長だった河野洋平さんとも出会い、大学卒業後について相談したことがワシントンへ行くきっかけとなりました。

世界中から政治や行政に関心のある仲間たちが集まるワシントンの大学で、
周りの仲間たちから「政治の現場に責任を持つべき時にはチャレンジしよう」という気持ちを教えられたそうです。
そして、衝撃を受けた9.11アメリカ同時多発テロ事件が、牧島かれんさんにとって政治を志す出発点となります。
- 日本はあらゆる聞きに備えられるのか?
- 世界における日本の役割は?
元々、政治が身近にあった牧島かれんさん。
日本を離れ衝撃的な出来事を目撃し、日本の安全保障や外交を考えたことが、本格的に政治の道を志すきっかけとなったようですね。
そして政治家へ
牧島かれんさんは、2008年に早稲田大学公共政策研究所「河野洋平特別プロジェクト~戦後内閣の軌跡」を担当。
これを機に、引退を発表していた河野洋平さんから自身の選挙区である“神奈川17区”の後継を指名されます。

当時72歳だった河野洋平さんは、若い後継者を送り出したいという思いがあったんだとか。
また当時、自民党の神奈川県には女性の衆議院議員がおらず、河野洋平さんは、女性候補者が良いと思っていたそうです。
牧島かれんさんは、麻生太郎事務所の政策スタッフを経験し、
2009年に神奈川17区から立候補。しかしこの時は落選してしまいます。
3年3カ月の浪人生活の間、各地域の方たちとゆっくり語り合い、
2012年に再び神奈川17区から立候補。

そして、初当選となり自由民主党所属の衆議院議員となりました。
まとめ
今回は、デジタル大臣に就任した牧島かれんさんについてまとめました。
父親が神奈川県議会議員で子供時代から政治が身近に感じていたという牧島かれんさん。
小学校から高等学校まで女子校で学び、大学はICUを出てアメリカの大学院を修了し、国際基督教大学で学術博士号を取得するなどすごい学歴をお持ちです。
また、アメリカ留学中には、9.11アメリカ同時多発テロ事件に遭遇したことで、安全保障や外交を考え、政治の道を志すことになりました。
このように様々な経験を積んできた牧島かれんさん。今後は、それらを発揮し活躍してくれることでしょう。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。